第1章 アカウントは選んだ。その先が、設計されていない
はじめに
本書は、Playbookシリーズの第4部である。
第1部『GTM Engineering Playbook』で収益プロセスの構造を、第2部『AI Ready Playbook』でそれを支える一意なデータの土台を、第3部『Campaign Management Playbook』でその上で投資と成果を計測する方法を述べてきた。本書が扱うのは、その先にある問いである。ターゲットアカウントは選んだ。では、その中の誰に、何を、いつ、どう届けるのか。
ABM(アカウントベースドマーケティング)に取り組む日本のBtoB企業の多くが、いま同じ場所で止まっている。リストは作った。データもある。だが商談は増えない。本書は、この停滞を「ABMの失敗」とは見ない。ABMがアカウントという面を選んだ発想は正しかった。足りなかったのは、選んだ面の中を見る解像度と、それを扱う単位である。その単位を本書は「購買グループ」と呼び、ABMの延長線上にある概念として位置づける。
本書は3つの問いに沿って進む。なぜ購買グループで見なければならないのか(第1〜3章)。購買グループとは何を見ることなのか(第4章)。どう実装し、回し続けるのか(第5〜9章)。実装は当社が用いる7つのステップに沿って述べ、終章で自社の現在地を測る8つの問いと、最初の90日で行うことを示す。
既刊と同じく、本書は特定のツールの手順書ではない。購買グループの設計は、どのMA/SFAを使っていても成立すべき概念と方法論である。読者がターゲットアカウントを開き、その中に誰がいるかを数え始めるための、設計図として使ってほしい。
1-1. やるべきことは、やってきた
BtoBマーケティングに取り組んできた企業の多くは、この10年でやるべきことをやってきた。
名刺、展示会、セミナー、Web――接点のデータは十分に蓄積されている。Excelで名簿を管理している会社はもう少数で、MA(マーケティングオートメーション)にデータは格納され、最近ではSFAともつながった。システム間の連携は完了している。そのうえでABM(アカウントベースドマーケティング)にも着手し、ターゲットアカウントは選定済みである。データが汚いという指摘も受け止め、名寄せも片付けた――少なくとも、片付けたと思っている。
それなのに、商談は増えていない。
正確に言えば、マーケティングの活動が商談に貢献しているのかどうかが分からない。MQLの件数は前年より増えているのに、営業からは「案件になっていない」と言われる。ABMのターゲットに絞ったはずなのに、パイプラインの中身は以前と変わらない。この状態を「ABMがうまくいっていない」と一括りにする前に、どこで止まっているのかを解剖する必要がある。
本章では、当社が支援の現場で繰り返し目にしてきたABMの停滞を、3つの症状に分解する。自社がどの症状を抱えているかを照らしながら読み進めてほしい。
1-2. 停滞①:ターゲットリストを作って、終わった
第一の症状は、最も多い。ターゲットアカウントを選定し、リストを作った。そこで止まっている。
ABMと聞いて最初に取り組まれるのが選定である。売上規模、業種、既存取引の有無、営業の意向――さまざまな基準でアカウントを絞り込み、100社、300社というリストが出来上がる。ここまでは、やり切っている。
問題はその先である。「ABC商事株式会社」をターゲットに定めた。では、ABC商事の誰に届けるのか。何を届けるのか。どのように届けるのか。この3つの問いが、空白のまま誰にも埋められていない。
空白のまま何が起きるかは決まっている。従来通りのマーケティング活動――メール配信、ウェビナー、資料ダウンロード――を、ターゲット外の企業も含めて同じように回す。その中からたまたまターゲットアカウントに属する人物がホットになれば、「ABMのアカウントです」と優先して営業に渡す。これは、リード単位の運用にアカウントのフィルタを掛けただけであり、アカウントの中に入って設計する活動ではない。選定はABMの起点であって、ABMそのものではない。
1-3. 停滞②:誰が何に関心があるのか、見えない
第二の症状は、データはあるのに、アカウントの中の誰が何に関心を持っているかが見えない、というものである。原因はデータの汚れにある。
当社がCRMの文脈で「データが汚い」と言うとき、指しているのは主に重複である。アカウントの重複と、パーソン(人)の重複だ。
企業マスターに「XYZ製造株式会社」と「XYZ製造(株)」が別レコードとして存在する。この時点で、1社が2社になっている。社名の表記ゆれはこの程度では済まない。一般名詞と同じ社名や、同名で無関係の企業が数百社存在する社名もあり、「どのXYZなのか」が判別できないまま登録されていく。アカウントが割れれば、そこに紐づくパーソンも割れる。片方のXYZ製造には鈴木・佐藤・田中がいて、もう片方のXYZ製造にも田中がいる。
ここで何が起きるか。営業の加藤は、自分が担当するXYZ製造の佐藤と鈴木にアプローチしている。田中はノーマークだった。ところが、もう一方のレコードにいる田中は、実は製品ページを多数閲覧し、ウェビナーに参加し、資料をダウンロードしていた。営業がデータベースを網羅的に眺めることは、実務上ほとんどない。見るのは自分が「ここ」と決めた相手だけである。ABMを実施するような企業はリード数も多く、割れたレコードの向こうにいる田中は、発見されないまま検討を進めていく。
『AI Ready Playbook』で述べた通り、重複は「最も確度の高いリードから順に見えなくする」性質を持つ。動いている人ほど接点が多く、接点が多いほど複数のレコードに散るからである。データが汚い状態でABMは成立しない――第二の症状が教えるのは、この単純な事実である。
1-4. 停滞③:営業に渡しても、動かない
第三の症状は、アカウントを定義し、ホットなリードを渡しているのに、営業が動かないというものである。マーケティングからは「決めたのに動いてくれない」と見え、営業からは「渡されても攻めようがない」と見える。
原因は、マーケティングが渡す単位と、営業が見ている単位がかみ合っていないことにある。
マーケティングの視点は、リードである。「この方がウェビナーに参加しました。しかもABMのターゲットアカウントの方です」――渡す単位は個人のリードであり、「MQL、渡しました」で引き渡しは完了する。
営業の視点は、組織とロールである。営業が知りたいのは、その人物がどの部署、どの事業所に属し、どんな役職・職種で、社内の検討においてどういう立場にあるのかだ。「……で、どの組織のどんな方ですか?」という営業の問いに、「ウェビナーに参加した方です」としか答えられないなら、営業は攻め筋を組めない。攻め筋が組めないリードは、放置される。営業は動かないのではなく、動けないのである。
1-5. 日本の現在地――停滞は、個社の失敗ではない
ここまでの3症状を読んで、「自社のことだ」と感じた読者は多いはずである。しかし、それを担当者の力量や個社の失敗と受け取る必要はない。
当社のマーケティング組織実態調査2026(BtoB営業・マーケティング職400名)が示す通り、日本のBtoB組織の成熟度平均は2.40/4.00であり、最上位の「先進レベル」に到達している企業は7.5%にすぎない。大多数は「投資はしたが、成果に転換できていない」踊り場にいる。MAもSFAも入れ、ABMにも着手した企業が、この踊り場の住人である。
同じ調査で、回答者の58.8%が40問中1問以上で自社の状態を「分からない」と答えている。ツール・データ・予算といった、仕組みの透明性に関わる領域ほど、この回答は多い。自社のデータベースにターゲットアカウントの関与者が何人いて、そのうち誰が今動いているのかを即答できる組織は、ごく少ない。ABMの停滞は、この踊り場の上で起きている典型的な症状なのである。
1-6. 3つの症状に共通する根本原因
3つの症状を並べると、共通する構造が見えてくる。
リストで終わる(症状①)のは、アカウントの中を設計する単位を持っていないからである。誰が何に関心があるか見えない(症状②)のは、データがアカウントとパーソンの単位で一意になっていないからである。営業に渡しても動かない(症状③)のは、渡す単位が個人のリードであり、営業が見る組織・ロールの単位と合っていないからである。
つまり、施策も、データも、評価も、すべてが「点」――個人リード――の単位で止まっている。ABMはアカウントという「面」を選ぶ手法として始まったはずだが、選んだあとの活動は、点の単位に戻っていた。アカウント選定の「先」が設計されていない。これが、ABMが止まる根本の原因である。
ここで、本書の立場を先に明確にしておきたい。本書は「ABMは効かないからやめよ」と主張する本ではない。むしろ逆である。アカウントを先に選ぶという発想は正しかった。足りなかったのは、選んだアカウントの中に何があるのかを見る解像度と、それを扱う単位である。その単位を、本書は「購買グループ」と呼ぶ。
次章では、ABMとは何かに立ち返り、購買グループがABMの否定ではなく延長線上にあることを示す。あわせて、近年語られる「Goodbye MQL」に対する本書の立場を述べる。
本章の要点
- ABMが止まるのは、アカウント選定の「先」――誰に・何を・どう届けるか――が設計されていないからである
- 3つの症状(リストで終わる/誰が動いているか見えない/営業に渡しても動かない)は、施策・データ・評価の単位が「点」で止まっているという1つの構造に帰着する
- 停滞は個社の失敗ではなく、成熟度2.40/4.00という日本のBtoB組織の踊り場で起きている典型的な症状である

